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2018-06

人生の道標 - 2017.10.18 Wed

古民再生を初めてもうすぐ5年。
古民家に住み始めて1年半。

何か見えてきたものがあります。
ただ漫然と、それでも迷いながら生きてきた人生に見つかった道標。

何のために生きるのか?
これは3~4年くらい前に見つかりました。

それは輪を繋げて、ちゃんと回すこと。
人生にあるいろんな輪。

それは。
先祖から子孫への生命の輪。
歴史・伝統・文化といった社会的遺伝の輪。
生産と消費という社会の輪。
食料・燃料・肥料を自給する循環の輪。

自分ひとりではなく、社会の一員として、一つの歯車として、ちゃんと回し続けるということ。
若い頃は歯車のひとつになんてなりたくなかったけれども、今は平気です。
それは、宇宙の中では自分の存在など無に等しいと分かったから。
そして、能動的に回る歯車というのもいいものです。

どう生きるのか?
これは最近見付かった方。
今回の本題です。

それは、お金で済んでしまうことを、なるべく自分でやって、丁寧に生きること。
古民家で1年半暮らして、実現したことが随分増えました。

家庭菜園での野菜の自給。
庭で採れる柿も自給。
薪ストーブとウッドボイラーと太陽熱温水器でのエネルギーの自給。
灰と雑草堆肥と残飯堆肥での肥料の自給。
味噌も自給。
古民家再生も、プロに頼まなかった作業は手間を自給。
とまあ、まだこの程度ですけれどね。

ただ、付け加えると、自給自足をするのが目標でも目的でもありません。
自分で出来ることを自分でやって、丁寧に暮らそうとした結果がこれなわけです。
そして完全な自給自足も目指しません。
資本主義社会に片足を突っ込みながら、もう片方の足で自立を試みます。
資本主義社会との付き合い方に悩んできた自分なりの答えです。

これから先、ヤギの飼育、鶏の飼育、米の栽培、家庭果樹園あたりを実現したいと考えています。
まだまだ先は長いです。
実現すれば、鶏糞なんかの肥料の自給、卵・米・果物の自給が出来ます。
このようにして、自給できる割合を4~5割くらいまで上げられたら嬉しいです。

これから先しばらくの人生はこの道標を頼りに生きていこうと思います。

そして、もう一つ。
やっぱり行動することは素晴らしいです。
長年悩んで迷ってきたことが、古民家再生を始めたことによっていろんなことが繋がって、新しい考えが見えてきました。
行動することによって考えが生まれるというのは面白いです。



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古民家再生・薪作り・家庭菜園が教えてくれたこと - 2017.07.14 Fri

大仰なタイトルですが、自分の中でずっと考えていること、感じてきたことをなんとか言葉にしてみます。

古民家再生・薪作り・家庭菜園が教えてくれたこと。
それは多分「生産は美徳なり」ということ。

この家を買って、古民家再生を始めて、移住して、薪作りとか家庭菜園とか。
そういう生活をしてもう4年半になります。
基本的には、平日は学校で勤務して、休日は家で古民家再生とか、薪作りとか、家庭菜園の作業をしている。
よく人からは「疲れない?」「大変じゃない?」と聞かれるけれども、基本的にはとてもよくバランスが取れていると思います。

それは、平日が頭脳労働とまでは言わないけれども、パソコンをパタパタしたり、授業したりという知的肉体労働(?)であり、休日が完全な肉体労働というふうに、それぞれ使う頭や筋肉が異なるということもあります。
しかし、それに加えていえるのは「休日の作業はとても生産的である」ということです。

「生産」
僕はこの大切さを日増しに実感しています。

古民家再生も、薪作りも、家庭菜園も、自分が何かを生産できたという実感が常にあります。
たくさんあります。
古民家再生はそれこそたくさんのプロセスがありますが、どれも廃屋が再生していくという実感を伴うものです。
薪作りはその日の作業で作れた薪の分量が成果として分かりやすいです。
家庭菜園も、土壌や雨や太陽や植物の力を借りながら、野菜を生産していきます。

一方、現代の社会はどうでしょうか。

これはあちこちで言われていることですが、生産を実感できる仕事は極端に減っています。
教員という仕事は教育サービスを生産してるはずですが、残念ながらその実感はありません。
工場で働く人も、たくさんある工程のごく一部分にしか関わらないため、生産を実感できる人はほとんどいないのではないでしょうか。

生産をする以上、その効率を上げようとすること自体はある種宿命的だし、仕方の無いことだと思います。
しかし、それがどこかの臨界点を過ぎてしまうと、途端に「生産の実感」が失われてしまうのだと思います。

その臨界点はどこか?
現代のようなオートメーション化は言うに及ばず。
18世紀に始まった産業革命による機械化ももちろん。
もう少し遡ったマニュファクチュアでの分業と協業あたりからがどうも怪しいです。
しかし、その臨界点を探すことにはもう意味はありません。
人類は臨界点をずっとずっとすっ飛ばした、「AI」に踏み込もうとしているのですから。

生産効率を上げるほどに、生産の実感からは疎外されるはずなのに、この動きは止まりません。
止めようがありません。
僕たちはこれからももっと、生産の実感から疎外されていきます。
僕たちが働いた成果というものがどんどんと見えづらくなっていきます。

僕の考えるに、これが現代の病です。
頑張っても、成果が見えないのですから、そりゃ病みます。

働くというのは、本来は「誰かの役に立つことに対して、対価をもらう」ということのはずです。
しかし「自分の何が、誰の役に立ったか」という肝心のことが見えません。
ファミリーレストランの厨房担当者は、どこかの誰かが開発したメニューを、どこかの工場で調理されて運ばれてきたものを、自分はそれを温めて、誰かに配膳してもらうだけです。
家作りも同じようなものです。
完成して、入居した様子を見られる現場は一体どれほどあるでしょう。

働けば給料が入ってきますが、それさえも見えません。
お金の流れが見えないのです。
自分の労働がいくらの価値を生み出し、そのうちのいくらが会社組織の取り分として吸収され、いくらが自分に還元されたかが見えないのです。
見えないというより、むしろ「そもそも、そんなお金の流れなど無い」と言ったほうが適切かもしれません。
なるほど、確かに給料というのは「自分の生み出した価値」ではなく、雇用契約上の時給や月給などで決まるものですから。

(余談ですが、その点、僕の経営していたラーメン屋は単純で良かったです。自分で開発したメニューを自分で調理して配膳して接客して会計して。お金の流れも至極単純。売り上げから経費を差し引いたら自分の給料)

さて。
このような「生産の実感からの疎外」というのは辛いと思うのですよ。
自分の人生の大きな部分を占める労働で実感や、達成感や、自己効力感を感じられないというのは。

しかし、もはや普通に働く限り、その疎外はどうしようもありません。
よっぽど小規模の組織で働くか、自営業をするとか以外は。

では、どうすれば良いのか?
というと、これが難しいのですが。
「せめて、プライベートの中で何かを生産してみませんか?」というのが僕の考えです。
そういう意味で僕はDIYというものは素晴らしいと思っています。

何でもお金で解決できる時代だからこそ、自分の想像力と体力と根気で何とかしてみる。
下手かもしれないし、失敗するかもしれないけれども。
今回は駄目だったら、また次回挑戦すればいい。
きっと、自分の成長や進歩も感じられるはず。
時代は変わって、今では「自分で手間隙かけてやる」ということが贅沢なのかもしれません。

僕たちに必要なのは生産です。
生産している実感です。
それはきっと生きている実感でもあります。

そんなことを学びました。



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商業主義に疑問を投げかける(9)まとめ・パラダイムシフト - 2016.09.05 Mon

このシリーズは今日で最後にします。
なんとなく書き始めたら楽しくなってしまって、9回ものシリーズになってしまいました。
今日はまとめと、提言らしきことをします。

色々と書いてきましたが、結局言いたいことはこうです。
商業主義はお金が世界を効率よく回るための仕組みです。
お金ばかりが世界をグルグルと回って、肝心の僕たちの幸せが無視され、そして人生が奪われています。

人生が奪われているというのは、次の意味においてです。
①主体的でも能動的でも創造的でもない「贋物の遊び」をさせられ、無駄な消費をさせられ、さらに無駄に買った商品を使う(例えば、スマホによる不必要で瑣末なコミュニケーション)ために時間を奪われていること。
②商業主義を広めるための手段として情報が氾濫し、その情報によって人間の隙間時間までもが満たされ、情報(雑音)によって思考が奪われていること。
③不必要な消費をするために、本来の必要以上に労働をするはめになり、その分の時間を奪われていること。例えばスマホの出費なんて10年前には無かった。スマホの維持費は家族3人で毎月2万円くらい?年間24万円を余分に稼がないといけない。
④効率化によって生産物への疎外が起きており、「自分が働いたことが誰かの役に立った」という時間を感じにくくなっていること。
⑤生活が過剰に便利になり、生活そのものが疎かになっていること。

という感じです。

もう少し言えば、「お金の奴隷になっていないか?」「便利・効率化の奴隷になっていないか?」「情報の奴隷になっていないか?」ということです。

あと、もうひとつ書くと、このままでは人類は滅びます。
お金がグルグル回っているうちに滅びます。
人口100億人を超すことが確実になっている現状で、それだけの人数が(お金のある限り)便利を追求したら滅びます。

現状、お金のある人は便利を追及し、お金の無い人は不便を我慢しています。
今の70億人の人口が何とか地球で生活できるのは、50億人の人たちが貧困ゆえに「ガソリンを使い、肉を食べること」を我慢しているからです。

人類が滅ぶのは、水・食料・燃料をはじめ、あらゆる資源が枯渇するからです。
資源は枯渇し、ゴミが増え、環境が破壊されます。
綺麗な空気も、綺麗な水もなくなります。

これは予想ですが、地球規模での資源枯渇の兆候があったとき、最終戦争が起こるのではないか思っています。
人間はもう少しお利口だと思いたいのですが、現在の大国の覇権主義を見ていると、やはりそう思わざる得ません。
資源がまだ足りている現在でさえ、争いの種は尽きません。

まあ、僕のくだらない予想はさておき(笑)
子孫に明るい未来を残せない仕組みは間違っていると思うのです。
人類の過ちはもう取り返しがつかないところまで来ているかもしれませんが、それでも過ちと気付いた時点で改めるべきなのです。



人類は「便利=善」の中で進歩してきました。
そろそろ十分です。
もう、十分に便利です。
これ以上の便利は滅びの道です。

そろそろ「不便でもいい」「不便がいい」「不便を選びたい」という方向に舵を切るときではないでしょうか。
現状、このことに気付いている人を散見します。
これは小さな一過性のムーヴメントに終わらせてはいけません。(アメリカのヒッピー文化のように)
どうにか、もっと大きな時代の流れに出来ないものかと、僕はいつも考えています。

「便利」の方向で何百万年も進歩してきた人類が、ここで「不便」の方向に舵を切ったとしたら。
それは人類最大のパラダイムシフトとなるはずです。

僕は人類の行く先に悲観的な(しかも、偏屈で独善的な)人間ですが、数百万年に一度のパラダイムシフトに期待して、少しワクワクしています。

お付き合いいただき、ありがとうございました。



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商業主義に疑問を投げかける(8)効率化の欺瞞 - 2016.09.03 Sat

商業主義と効率化は切っても切り離せない、密接な関係にあります。
あらゆる生産活動において企業や資本家が最大利益を実現するためには、効率化が欠かせないからです。
また、商業主義の中で売られる「便利な商品」も、大部分は「生活を効率化する」ことと同義です。

効率化という部分について里山古民家さんからコメントを戴きまして、なるほど、確かにこれは商業主義を支える大きな屋台骨であり、たくさんの欺瞞を含んでいるものだと思い、一つのテーマとして取り上げることにしました。

効率化による欺瞞を突き詰めて言うと、「効率化されているのに我々の労働時間は減らずに、余裕も生まれない」ということに尽きます。
が、考えてみるとここにはいくつもの欺瞞が隠されていることに気付きました。
手探りで、一つ一つ述べていきます。

『モモ』という児童小説では、時間泥棒たちは「効率化」という嘘で人々を騙し、時間を盗んでいきました。
この辺りのことをよくよく考えてみる必要があると思います。

効率化の欺瞞①
効率化をするたびに、新たな余計なことが増え、結局は非効率になっていくこと。
これはどの仕事でも思い当たる部分があると思います。
僕の感覚では、一つ便利なものが生まれるたびに、2つくらいずつ余計なものが増えている感じがします。
代表的だと思うのが職場におけるパソコン。
パソコンのお陰で僕たちは従来の何倍もの効率で文書作成や表作りが出来るように成りましたが、その分仕事が早く終わって楽になったでしょうか?
あるいは、従来の何倍もの仕事量をこなせるようになったでしょうか?
たぶんどちらでもないと思います。
効率よくなったのに、仕事量は対して変わらないのに、早く終わらない、という謎の現象が起きています。
理由はさまざまですが、主には「効率のよいシステムを維持するための手間が必要になったこと」と、「それまで出来なかったことが出来るようになってしまった」からだと思います。
パソコンが無く、手書きや口頭だけに手段が限られていればもっと楽なはずです。
パソコンでいろんなことが出来るばかりに、会議は資料だらけに成り、データだらけに成り、パワーポイントのスライドショーだらけになりました。
パソコンで出来るゆえに手書きのメモや口頭だけの説明なんてのは許されません。
会議なんてのは、結局は何かを説明して、了承が得られればいいだけなのですが、その準備に何倍もの手間がかかるように成りました。
「出来るのにやらない」のは許してもらえません。
しかも結局は資料やデータばかりで、論点がぼけてしまうことも多々あります。

そしてシステムは次々に変わります。
大抵、覚えて慣れた頃に次のシステムに移り変わります。
まだ覚え直しです。


効率化の欺瞞②
「できること」が増えてゆくこと。

効率化すると出来ることが増えます。
あるいは、よりたくさんできるように成ります。
一見良い事の様に見えますが、これ自体が曲者です。
「出来ないこと」と、「出来るのにやらない」ことは全く異なるからです。

さっき出した会議の資料作りのこともそうです。
パソコンが無い時代ならば作れる資料も限られていたのでしょうが。
パソコンがあるゆえに「出来る」ようになってしまい、「やらない」ことは手抜きと見なされ、許されません。

そしてこの「出来るのにやらない」という問題は、職場の身内でもそうですが、外部の顧客相手だとさらにシビアに成ります。
顧客が「〇〇を使えば出来るじゃん」と言えば、それを断るのは至難の業です。

東京の会社の人が夜も9時を過ぎた頃、大阪の顧客に携帯電話で呼び出された。
何かのクレームだ。
夜も遅いから翌日の対応にしようとするも、「リニアを使えば来れるでしょ?」。
さて、断れますかね・・・。
あるいは、携帯電話が無ければそもそも夜に呼び出されるということもありません。

僕たちは効率よく働いているというよりも、効率よく「使われている」だけかもしれませんね。


効率化の欺瞞③
効率化するほどに生産物への疎外が増すこと。

これは里山古民家さんとのコメント欄でのやり取りを通じて思いつきました。
大規模経営しているアメリカの農家は1人で1000人分の食料を生産できると書きましたが、これは農家の労働効率だけの話で、実際にはそれを支える農薬やら種苗やら農機具やら、いろんな産業が関わっています。
里山古民家さんの指摘どおり、それら関連する産業に関わっている人手を含めると、結局生産効率全体は農家1人で2分の食料という時代と大差ないかもしれません。

ただいえることは、産業構造が大きくなり、複雑になるほどに、生産物に対する疎外は増すということです。
自分がどの部分に、どう貢献したかが分かりにくいからです。
大規模農業を支えている農薬会社の経理の社員さんは、自分の労働が何の生産にどのように貢献しているという実感を持つのでしょうか?
あるいは、大規模農家さんは、自分のバックにたくさんの業者のかかわりを感じながら、1000人分の食料に対してどの程度「自分が生産した」と思えるでしょうか?

仕組みが複雑になった挙句、500人で1000人分の食糧生産をするくらいなら、最初から1人で2人分の食糧生産をする形態の方が、生産の実感があり、疎外がないという意味では健全です。

「働く」という言葉の解釈は色々とありますが、最近よく言われている「(はた)を(らく)にする」という解釈は僕も好きです。
人の役に立っているからこそ、その見返りとしてお金をもらえるということです。
働くための動機としてはお金だけでは不十分です。
「誰かの役に立っている」という実感も欲しいです。
屋台のラーメン屋(何度も例示して申し訳ないのですが、やはりシンプルなものの代表例なのです)の場合は自分が作ったラーメンを目の前でお客さんが食べてくれます。
生産の仕組みが複雑になるほどに、労働者は生産物から疎外され、「誰かの役に立っている」という実感は希薄になります。
世の中に、「目の前の人の役に立つ」という仕事はどれくらいあるでしょうか。


効率化の欺瞞④
効率化しても、結局は利益は上がらないこと。

欺瞞というか、効率化の宿命です。

1人の労働者でパンが1日に100個作れるとして、効率化(新しい機械の導入)によってその会社の労働者が1人で1日200個のパンを作れるようになったとしたら。
単純に言えば、その会社は従来の半分のコストでパンを生産できます。
コストは半分でも、パンは従来の相場価格で売れるのですから、コストが浮いた分は丸儲けです。
たくさんの利益が上がります。
(実際にはたくさん売るために、品質はそのままで、相場よりも幾分安く売るでしょうね)

しかしこの状態はすぐに終わります。
よほど特別な技術革新でなければ、効率化というのはすぐに真似されるからです。
他所の会社も同じように新しい機械を導入します。
するとどうなるか。
労働者1人でパンを1日200個作れるのが当たり前になり、価格競争が起こり、パンが値崩れします。(企業が談合しない限りは)
すると、効率化されて、労働者は従来の2倍ものパンを作っているのに、企業の得られる利益も、労働者一人当たりで稼ぎ出せる利益も変わらなくなります。

そうと分かっていても、効率化は進めないといけません。
ライバルよりも価格か品質か、どこかしらで差をつけて抜きん出ないと生き残れないからです。
企業はギリギリまで効率化を進める、チキンレースを常に続けています。
(この点において、ブランドとして地位を確立できればチキンレースに参加しなくてすみます)


効率化の欺瞞⑤
人の仕事を無くすということ。

これは単純な話で、労働者一人当たりの生産量が効率化によって増えれば、その分労働者は少なくて済みます。
リストラも結局はこれでした。
生産効率が上がって、売れ続けているうちは当然ながら生産を増やします。
が、ひとたび不景気になって会社が傾くと、効率化によって余っていた労働者を減らします。

もっと分かりやすい話が、例えば高速道路の料金所。
ETCという効率化によって、料金所のおじさんは半分くらいに成りました。
全車両にETCがつけば、必要なくなります。
効率化によって人の仕事が奪われるのです。



色々と述べましたが、最後に改めて述べるのは、効率化する企業を責めれないということ。
彼らは生き残るためには泳ぎ続けるカツオのように効率化を進めないといけないのです。

そして、結局のところ効率化しても僕らは楽になれないのです。
それはむしろチキンレースです。
そのチキンレースから抜け出す手段が見つかったなら、さっさと降りた方がいいと思います。
(それって結局は、ドロップアウトするか、あるいは自分にしかないバリューを作り出すことです)



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商業主義に疑問を投げかける(7)理想の国民 - 2016.09.02 Fri

番外編を続けます。
今日は理想の国民について。

4回目の記事で「資本家・為政者・マスコミは商業主義の共犯者で、その片棒を担いでいる」と述べました。

もう少し分解しましょうか。

順番的に、まずは為政者から述べます。
これは国、政府、政治家とも言い換えられます。
それぞれの言葉の定義は異なりますが、中身は同じです。

彼らの目指す先は色々とありますが、集約すると「経済発展」となります。
こういうと反発もあるかもしれませんが、経済という言葉自体が「経世済民」(よをおさめ、たみをすくう)という言葉の略語ですので、「政治≒経済」と考えるのはごく普通のことです。

政府としては、経済が発展しないことには話しに成りません。
あらゆる行政サービスは税収などの収入で成り立ち、世の金回りが悪くなると失業者が増え、困窮する人が増えるからです。
逆に経済が良く回っていれば、国民の生活は(物質的には)豊かに成り、行政の手を差し伸べるべき人が減り、そして税収も増えるからです。

なので、政府は常に経済発展を望みます。
経済発展とは、物がよく売れるということです。
大量生産、大量消費、大量廃棄というサイクルです。
高度経済成長期にはこの構図だけで良かったのですが、一億総中流社会となって、国民の需要があらかた満たされてからは、発展途上国を中心とする海外市場もどんどんと開拓していきました。
国内だって1億3千万という巨大な市場が残っているので、こちらはヴァーチャルな需要を作ることによって物を売り続けます。

次に資本家。
これはお金持ちや企業と同義で考えていいです。
お金に余裕がある人ならば多少なりとも投資をして資本家となっていますし、企業(株式会社)は株主(資本家)が所有しているわけですから。
ここでは便宜的に「企業」と呼びましょう。

企業の求めるのは「最大利益」です。
なぜならば、自分達に投資をしてくれて、自分達を所有している資本家が「最大利益」を望むからです。
企業には出資者の希望を叶える義務があります。

だから、企業も政府と同じように経済発展を望みます。
自社の商品がよく売れて、利益がたくさん出ることを望みます。

最後のマスコミは企業とはベタベタの仲です。(マスコミ自体が企業ですが)
ほとんどのマスコミは企業からの広告料で成り立つからです。
だから、企業にとって不利なことは、よほどの刑事事件や行政処分にならない限りは取り上げません。


(余談)
そういえば例の「ポケモンGO」が日本で配信されたとき、僕の聴いているラジオ番組でも1日に何回もそのことが取り上げられていました。
その中でお決まり文句みたいに、
「夢中に成り過ぎないように・・・」
「安全に注意して・・・」
「周囲の迷惑にならないように・・・」
程度のコメントが繰り返し言われるだけで、ポケモンGOに対しては概ね肯定的な態度しかありませんでした。
中には、「普段外に出ない人が、外出をするきっかけになる」というような、ゴミクズ同然のコメントがあったりして。
いえいえ。
もっと根本的に、
「いい歳した大人が外でこんなゲームして、恥ずかしくねえの?」
「これ作ったゲーム会社はなに考えてるの?迷惑行為や事故が起こるに決まってるじゃん。儲かれば何でもいいのか?!」
「あちこちで画面見ながら歩いている集団がいて胸糞悪い」
くらいの、気が利いたコメントは言えなかったんでしょうかね?
多様な価値観、多様な意見とか言いながら、企業が儲かることにはケチを付けないという部分では画一的です。



あ、脱線しました。
閑話休題。

マスコミは企業の味方です。
企業が儲かると、スポンサー料も弾んで、マスコミも儲かるからです。

はい。
というわけで、政府も企業もマスコミも立場は違えど、それぞれに物がたくさん消費されることを望んでいます。
そしてもちろん、それぞれがバラバラの存在ではなく、太いパイプでつながりあっているので、グルなわけです。

そして、ここからが大切です。
政府も企業もマスコミも、考える理想の国民像は一緒です。
それは大量消費してくれる人です。

もう少し、膨らませて書きましょう。
①物でもサービスでも大量に消費してくれる人
②そのお金を稼ぐためにたくさん働いてくれる人
③余計なことは考えずに、企業の宣伝に乗っかってくれる人
④子どももたくさん作って(経済発展には欠かせない)

この中で④だけは少し毛色が異なるので、ここでは除外します。
それ以外の①②③を考えると、一番大切なのは③です。
企業の宣伝に乗っかりさえしてくれれば、物やサービスを買ってくれて、そしてそのお金のために働いてくれます。
経済は上手く循環します。

と、考えると、とんでもないことが分かります。
政府も企業もマスコミも実は「考えない国民」を理想としているのではないでしょうか。


考えない国民。
政府に異論を唱えない。
マスコミの発信する情報は全て信じてくれる。
企業の宣伝に乗っかり、消費する。
確かにこれは理想の国民。

で、もしも、政府も企業もマスコミも「考えない国民」を作るために共謀しているとしたら・・・。
この件を追求すると陰謀論みたいになっちゃうので、やめておきます。
陰謀論は好きではありません。
僕には自分の実感としてたどり着ける「推論」だけで十分です。

ただ、この情報過多の社会、スマホを通じていつでもどこでもどんな小さな隙間時間も情報で満たされる現代。
これって、偶然でしょうかね。
情報が増えるほどに、人は思考が弱くなります。
情報が増えるほどに、「魂の声」は聞こえなくなります。
情報が増えるほどに、「自分はどう生きようか」「自分の本当にしたいことは何か」と考える時間はなくなります。
この濁流のように日々流れてくる情報が、僕らの思考を弱めるためにやってくるのだとしたら・・・。
何度も述べていますが、やはり情報なんてのは少ない方が良いですね。

人間にとって「思考」は大切なものです。
でもそれは、商業主義にとっては邪魔なんだろうな。

思考を奪うといえば、アイドルグループなど。
なんか、そういうものが持て囃されています。
昔「バカは歌って踊ってろ」なんて言った人がいました。
当たらずしも遠からず、かも知れません・・・。

余計なことばかりを考えて、ろくに消費しない僕は「理想の国民」からはかけ離れているでしょうね。
ましてやこんな推論を論じているのですから。
いつか、ゴルゴ13に消されるかもしれません・・・(笑)


(補足)
今日の記事は極論の暴論の推論です。
全てが悪の枢軸ではありません。
政治家も良心的な人もいるでしょう。
企業にも最大利益ばかりを求めずに、社会貢献に力を入れる企業もあるでしょう。
資本家も、良心的な企業を応援している人もいるでしょう。
マスコミにも正義感のある人はいるはずです。
そういうことは知っていますし、実際にそういう人が僕の身近にも何人もいます。
ただ、商業主義の仕組みはそういうこと(個々の例外)を全て飲み込んで回っているのです。
悪いのは仕組みそのもので、それ以上の何かに責任を求めるのは酷です。
政府にも企業にもマスコミにも、それぞれに「商業主義の中に組み込まれている」という宿命があるのですから。




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プロフィール

野人

Author:野人
こんにちは。
野人っていいます。
前職はラーメン屋台を経営していました。

伊那谷にて2012年暮れに築150年の古民家を購入し、3年4ヶ月かけて最低限の面積を再生して、2016年3月末に移住しました。
全ての再生は10年計画なので、まだまだ続きます。

もちろんプロの方々にもお世話になりますが、お金があまり無いので、なるべく低予算と自力での再生を頑張っています。

ブログの記事数は膨大なので、手っ取り早く内容を知りたいという方はこちらのスライドショーをご覧ください。
ブログの内容を25分に凝縮しました。
https://www.youtube.com/watch?v=ZpFnv9gLmJM

自分が古民家再生をする上で、他の人のブログを参考にしたり、あるいはHPから知識を得たり、ネット社会には本当にお世話になっています。
なので、自分自身も再生の過程を発信することで、少しでもネット社会から与えてもらったものに対して恩返しできればと思っています。

皆様からいただけるコメントに励まされ、またブログを通じて広がってゆく人の輪がとても楽しみです。

当ブログはリンクフリーですので、ご自由にお使いください♪

ご用件のある方は
zenhankai@yahoo.co.jp
あるいは
090-1707-2071
までどうぞ。

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